亡き父の背中を追いかけ

亡き父の背中を追いかけ

50代男性

「3カ月の修養生活を振り返り、少しも成人していないと思う。むしろ、後退したのではないか。不足しないようにと心がけているが、修養科に入る以前より、少なくとも2倍は不足を感じている。顔や態度には出さないようにと努めているが、心の中では腹を立て、反抗している」
これは、昨年7月に出直した父が34年前、いまの私と同じ55歳のときに修養科を志願し、その最後に書いた文章の一部だ。
私は信仰3代目。両親は教会の御用に熱心だった。
25年前、未信仰の妻と結婚。母は15年前に出直したが、生前は何度も妻に声をかけ、妻は8席まで別席を運んだ。
一方の私は、妻に教えを伝えたことはなく、教会の月次祭にも一人で参拝していた。
昨年10月、事情から会社を辞めた。これまでに何度か転職を繰り返していたこともあり、退職をきっかけに夫婦関係がぎくしゃくするようになり、別居状態になった。
仕事を失い、家族も失いかねない状態になった私は、所属教会長と兄に相談し、心を入れ替えさせていただこうと、修養科を志願した。

お引き寄せを感じ

おぢばに到着し、実家から持ってきた『稿本天理教教祖伝』をふと開いたところ、父のメモが挟まっていた。そこには「私(筆者)の子供をどうやったら少年会に行かせられるか」と書かれていた。どんなときも、私たち家族とお道をつなぐことを考えてくれていたのだと驚いた。
そして『天理教教典』には、冒頭の「修養科3カ月間の反省と決意」という文章が挟まっていた。
修養科を志願しなければ、父の文章を見ることも、私たちを気にかけてくれていたことを知ることもなかっただろう。事情を通じて、私を修養科へとお引き寄せくださった親神様のお働きに感激した。
修養生活が始まり、1番組係の御命を頂いた。「なぜ私が」と思ったが、講師の先生から「わが事は忘れて、人さまのために働かせてもらいなさい」と言われたとき、「おぢばで3カ月を過ごせば、仕事も夫婦の問題もご守護いただけるだろう」と安易に考えていた自分の心を見透かされた気がした。

そして「まずは自分の問題は忘れて、クラスの仲間の力になれるよう、周りの人たちのたすかりを願って通らせていただこう」と心に決めた。
その後、教典や教祖伝の授業では、教理をより深く学ぶことができた。なかでも「たんのう」の教えを詳しく知ることで「理づくりのつもりで通らせていただかなければ」と意識するようになった。
また、おてふりや鳴物の練習、ひのきしんにも精いっぱいつとめさせていただいた。
2カ月目のこと。心臓に原因不明の身上を抱えていたクラスの男性が風邪をひき、病院を受診したところ、心臓が「心房細動」という身上だと判明した。
クラスの仲間たちがおさづけの取り次ぎ、添い願いを続け、男性は入院・手術を経て無事に退院。修了時には、彼と一緒に集合写真を撮ることができた。

原点に立ち返って

一方、私はと言えば、2カ月目の終わりごろから、もやもやとした感情や、修養科を了えてからの生活への不安、周りに対する不足がふつふつと湧いていた。
修養生活が始まってから、その日の出来事や感想を所属教会長にメールで送っていたのだが、兄がそのメールを見たようで、「楽しいだけで終わっていいのか。謙虚さ、真剣さが感じられない」と苦言を呈されて、腹も立った。
そんなある日、風邪をひいた。奇しくも感話大会の弁士に選ばれ、所属教会長から「自分の考えを整理する機会だ」と言われた矢先だった。
そこで、これまでの人生やなぜ修養科を志願したのかを振り返った。
まず浮かんだのが、父の文章だった。父と同じタイミングで、同じような不足を感じていたことに思い至った。父が何に不足していたのか分からないが、偶然とは思えない神様のお導きを感じずにはおれなかった。
この経験から、親が教会へ足を運び、熱心に信仰してくれたからこそ、いまの私たち家族があること、その親の姿を目標に、この道を通っていくことが大切だと気づいた。
私の記憶にある父は、未信仰家庭から嫁いだ母と共に、常に教会の御用に心尽くす姿だった。夫婦げんかをしても、いつも夫婦で話し合って解決していた。
そんな父の背中を追いかけることが、いま私が抱える問題を解決する糸口になるのではないかと思った。
残りの期間、まずはたんのうの心、低い心で通るようにと、常に意識することに努めた。

地元へ戻った現在、アルバイトをしながら仕事を探す毎日だ。さまざまな場面で、ほこりを積みそうになることもあるが、たんのうの心を意識して、絶対に腹を立てないようにと心がけている。
先日、修養科の仲間と連絡を取る機会があった。おぢばでの3カ月の出来事をあらためて思い出しながら、日々の生活を教えに照らしている。